Church Channelとはセブンスデー・アドベンチスト教会員向けに提供しているプログラムです。

セブンスデー・アドベンチストの教理をご理解の上ご利用ください。

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与える心

十字架の愛に応答する

与える心

マケドニアの信徒たちは、極度の貧しさの中にありながら、エルサレムの兄弟姉妹を助ける機会を懇願しました。 (コリント第二の手紙 8 章 4 節) 自分たちが貧しい中にあっても、誰かを「助けたい」、誰かのために「献げたい」という熱心さがみられたのです。 終わりの時代、人々の愛は冷え、自分中心の生き方がこの世界を覆います。 聖書も警告しています。「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。 」 (テモテへの手紙二 3 章 1,2 節) 。 マケドニアの信徒たちの、「与える心」はどこからきたのでしょうか。 それは、日々、御言葉を通してイエスさまと交わることによって与えられました。 イエスさまの生涯と品性を知れば知るほど、私たちはますますイエスさまのようになりたいと願うようになります。そして、自分中心の生き方から、周りに与える生き方へと変えられるのです。 隣人のためになされる自己犠牲の一つひとつの行為は、その人の心に慈善の霊を強め、イエスさまと一つになります。

宣べ伝える祝福

十字架の愛に応答する

宣べ伝える祝福

もし私たちが、イエス・キリストと出会っていなかったなら、私たちの人生はどうなっていたでしょうか。 神様は、私たちを闇の力から救い出し、イエス・キリストへと導いてくださいました。聖書は約束しています。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10章13節)。では、「主の名」はどのようにして私たちに届けられたのでしょうか。それは、福音を宣べ伝える人によって私たちへと届けられたのです。 「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができ」るでしょうか(ローマ10章14節)。 イエス・キリストと出会った者として、私たちも与えられた場所で証しすることができます。 私たちが福音を分かち合えば分かち合うほど、神様はさらに多くの祝福を与えてくださるのです。 「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカによる福音書6章38節)

礼拝メッセージ215 十字架で会おう

説教者 :島田隼人  250524 聖書朗読 :ガラテヤの信徒への手紙6章 14 節 瞑想の言葉 :E・G・ホワイト「患難から栄光へ」第 20 章 「信仰をもって十字架のもとにひざまずくとき、彼は人が到達できる最高の場所に到達しているのである。」 始めの讃美歌 :希望の讃美歌2番 終わりの讃美歌 :希望の讃美歌 85 節

礼拝メッセージ214 ミッションの拠点

説教者 : 山地 悟  241207 聖書朗読 :使徒言行録 19 章8~10 節 瞑想の言葉 :「使徒たちの幻を追って」180 頁 「イエスと使徒たちの模範に触発されて、私たちは教会を人々が住む家に持ち帰ることにしたのです。」 始めの讃美歌 :希望の讃美歌 136 番 終わりの讃美歌 :希望の讃美歌 237 番

礼拝メッセージ213 獄中からの讃美

説教者 :花田憲彦  2301118 聖書朗読 :使徒行伝 16 章 30~34 節 瞑想の言葉 :E・G・ホワイト「患難から栄光へ」第 21 章 「全天は、キリストのために苦しんでいる人々に関心をよせ、獄屋をおとずれるために天使たちがつかわされた。天使たちの足音に地はゆれ動いた。 重いかんぬきのかかった獄屋の戸が開け放たれ、くさりと足かせは囚人たちの手足から落ち、明るい光が獄中にみなぎった。」 始めの讃美歌 :希望の讃美歌 134 番 終わりの讃美歌 :希望の賛美歌 378 番

所有者は誰?

十字架の愛に応答する

所有者は誰?

イエスさまは、裕福な人々が神殿で多額の献金を献げているのをご覧になりました。正しい場所で正しいことをしているように見えましたが、イエスさまの表情は曇っていました。サタンは、私たちの献げものを妨げることができない時、今度はその動機をゆがめようとします。もし私たちが、自分を所有者と考え、さらに自分の財産を寄付する者として振る舞うなら、神様を栄光の座から退け、自分に栄光を帰すことになるのです。創造主であられる神様こそが、すべての本当の所有者であり、「万物の相続者」(ヘブル1:2)です。ダビデも次のように宣言しています。「天と地にあるすべてのものはあなたのもの」(歴代誌上29:11)。では私たちは何者なのでしょうか。私たちは神様から与えられたものを忠実に管理する者なのです。神様がご自分の財産の一部を私たちに託してくださるたびに、私たちはその一部を神様にお返しするよう招かれているのです。ダビデは次のようにまとめています。「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」(歴代誌上29:14)。

もったいない?

十字架の愛に応答する

もったいない?

「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」マルコによる福音書14:5 使徒たちは、マリアの献げ物を一言で「無駄」と評しました。彼らの動機を掘り下げるまでもなく、神様のために献げることは実に無駄なことだと考える人々がいることは事実です。このような人々は、自分にとって価値があると思う目的には多額の寄付をすることがあっても、神様の御業となると、資源の無駄と考え、ほんの僅かしか献げないのです。 すべての人がマリアのように献げるならば、福音のメッセージはどれほど大きな影響力になるでしょうか。私たちの資源を神様の御業に用いることほど素晴らしい用い方はありません。神様の御業のために献げるとき、それは天に宝を積むことを意味します(マタイ6:19–21)。つまり、地上で神様の御業を支援し、神様の愛と御子という、人類に与えられた素晴らしい贈り物を多くの人に知って貰えるだけでなく、私たち自身も天に宝を蓄えることになるのです。 什一と統合約束献金をお返しする今、十字架において支払われた犠牲に心を向けましょう。そして、私たち一人ひとりが愛の応答ができますように祈りましょう。

天の力 (チリ)

アドベンチストミッション(日本語オリジナル/吹き替え版)

天の力 (チリ)

2025年4期