十字架の愛に応答する
イエス・キリストは「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 (マタイによる福音書6章20節~21節)と言われました。 神様との正しい関係を持つとき、ささげることが喜びとなり、それは永遠に残る宝となります。人生を豊かなものとする秘訣がここにあります。

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今日、次の知恵の言葉を思い起こしましょう。「物を愛し、人を利用する時代にあって、クリスチャンは人を愛し、物を用いるように召されています」。イエスさまは、まさにその模範を示されました。泥を用いて盲人を愛されました。水と壺を用いて新婚夫婦を愛されました。パンと魚を用いて群衆を愛されました。衣の裾を用いて長血の女性を愛されました。そして最後には、十字架と三本の釘を用いて、愛の架け橋を築かれたのです。今日、イエスさまは私たちを用いて、人を愛されます。敵さえも、不当に私たちを利用した人であっても、愛されるのです。神様の忠実な管理者として、私たちも自分の持ち物を用いて人を愛するようにと招かれています。時間も、才能も、富も、そして証しも――すべてを通して人々をイエスさまのもとへ導くのです。神様の畑で「共に働く者」とされるのは、なんという特権でしょうか。
皆さんは、三つの「一割」の法則をご存じでしょうか。これは古くから伝わる知恵に基づいた財政管理の方法で、今日も世界中の多くの人々によって実践されています。その仕組みとは、神様が私たちを祝福し、収入を与えてくださるときに、最初に支出する三つの「一割」のことです。一つ目は、神様への一割である 什一です。什一は、忠実さ、信仰、そして感謝のあかしです。すべてのものは、神様から与えられていることを認め、最初の一割を、既に神様のものとして、喜んでお返しします。二つ目は、献げものとしての一割です。これは献金やその他の献げものです。神様の恵みに感謝し、『受けるよりは与える方が幸いである』と聖書が教えるように、隣人への愛を示すことです。そして、三つ目は自分と家族への一割、貯蓄です。(自分と家族への一割)これは自分と家族への贈り物です。将来の必要に備え、困難な時に家族を守るため、聖書も、貯蓄することの重要性を教えています。真の自由は、神様に什一をお返しし、人に施し、賢く蓄え、慎重に用いることによって与えられるのです。聖書は、神様を第一にする者は、その忠実さのゆえに必ず祝福されると教えています。
ある物語があります。ラリーとビルという二人の男性が仕事を失い、どこにも職が見つかりませんでした。そんなとき、ビルが「ライオンを捕まえれば1頭につき50万円支払う」という動物園の広告を見つけました。危険な仕事ではありましたが、二人は野生のライオンを捕まえることに挑戦することにしました。彼らは、ライオンの餌と手作りの檻を持って、ライオンの生息地へと向かいました。しかし、岩場をよじ登っていたとき、足元が崩れ、急斜面の穴に滑り落ちてしまったのです。そして、そこには空腹のライオンたちが待ち構えていたのです。ラリーは状況をすばやく把握し、こう叫びました。「ビル、俺たち金持ちだ!金持ちになったぞ!」――騙されてはいけません。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(ペトロの手紙一5章5–8節) 聖書は、サタンが欺きの達人である、と教えています。彼は毒を美味しく感じさせ、健康的な食べ物を不味く感じさせることさえできます。真理を誤りのように見せ、誤りを真理のように見せるのです。その結果、世界中が混乱しています。
イエスさまは、蓄える方だったでしょうか。それとも、使う方だったでしょうか。イエスさまは、寛大さの象徴であり、惜しみなく与える大いなる与え主でしたが、すべての資源に無限にアクセスできたにもかかわらず、聖書はイエスさまが浪費家であった場面を一度も示していません。イエスさまが、五千人以上の人々に食べ物を与えた時でさえ、残ったパンや魚を、パンくず一つに至るまで集めるよう命じられたのです。なぜでしょうか。「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパン屑を集めなさい』と言われた。」(ヨハネ6:12)お気づきになりましたか。イエスさまは、少しも無駄にならないように、パン屑までも大切に集めたのです。イエスさまのように、与えられた祝福を大切に用いることができますように祈りましょう。
新しい1年が始まりました。今年も神様が全ての必要を満たしてくださることを信じて歩んでまいりましょう。そして、私たちが心から神様へお返しする什一や献金を通して、福音が世界中に広がりますように祈りましょう。献げ物の中心は、神様を、与え主、支え主として見上げ続けるという姿勢であり、単に教会の働きそのものに焦点を当てることではありません。私たちがおささげするのは、第一に神様の絶え間ない祝福への感謝からです。神様が祝福してくださるたびに、私たちは神様にお返しするのです。私たちの忠実なささげ物を通して、神様の働きは全世界へと広がっています。新しい年を迎える今こそ、神様への献身を新たにし、十字架で示された永遠の愛に心から応えましょう。
「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。黙示録21章2節 一人の牧師が新しい地での生活をとても美しく描いて説教したため、会衆の一人が大きな声で叫びました。「先生、新しい地、エルサレムに行くのが待ちきれません!」牧師が引用した聖句の一部を紹介いたします: •「都に住む者はだれも病を訴えることはない。都に住む民は罪を赦される」。イザヤ書 33:24 •「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。黙示録21:4 この世で私たちは、悲しみ、苦しみ、死を経験します。しかし、私たちが福音をすべての場所に伝える使命を終え、新しい地に迎えられるとき、これらの苦しみはすべてなくなります。あなたはそこに行くのが待ちきれませんか?私たちと新しい地との間にある唯一のものは、「御業を完成させること」だけです。「新しい地」への道を開いてくださったイエス・キリストの十字架に心を向けましょう。 2025年を導いてくださった神様に感謝をもって応えられますように。そして、「新しい地」が待っているという希望を心に抱きつつ2026年を迎えることができますように。
「彼らは、『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』」。マタイによる福音書22章21節 礼拝が終わり、二人の姉妹が家に帰る車の中で、今日のメッセージについて話していました。姉が妹に「今日の献金についての話を聞いた?」と尋ねると、妹は「聞いたよ」と答えました。 姉は微笑みながら、「実は少し悲しくなったの。今日は神様になにもお献げできなかったからね」と言いました。妹は驚いて、「どうしたの? 仕事も収入もあるのに」と聞き返すと、姉は答えました。 「クリスマスとお正月で、つい使いすぎちゃったの。次からもっと気をつけるわ」。すると妹は、「私も同じ誘惑があったけど、まず最初に神様にお返しする分をわけて、それから残りでやりくりしたの。」と言いました。
「彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」。イザヤ書 53 章11 節 新しい命が誕生すると、人々はその赤ちゃんに贈り物をします。親しい友人や親族が訪れ、喜びを分かち合いながら、何かしらの贈り物を持参します。 イエスさまが誕生されたときも同じでした。 東方の博士たちは、幼子であり、王様であるイエスさまを礼拝するために、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。この物語は、献げることが礼拝であることを教えています。献げることと礼拝は切り離すことができませ ん。旧約聖書の時代においても、神殿での礼拝にも神様への犠牲の献げ物が伴っていいるのです。 什一と統合約束献金をお返しする今、十字架において自分自身を献げてくださったイエスさまに心を向け、私たちも献げものを通して心から神様を礼拝いたしましょう。
「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」。マタイによる福音書 24章14節 中学1年生のある日、私は朝食をとらずに学校へ向かいました。家を出るときから、お腹が空いていた私は、昼食の時間が待ち遠しくて仕方がありませんでした。午前中の授業中も何度も壁の時計を確認し、昼食の時間までのカウントダウンをしていました。しかし、期待とは裏腹に時間はまるで進まないように感じられました。まるで人生で一番長い日を過ごしているかのようでした。そして、ようやく待ちに待ったチャイムが鳴りました。私は急いで本をまとめ、すぐに教室のドアへ向かいました。しかし、そのとき先生の声が響きました。「リワリ、座りなさい!」私はしぶしぶ席に戻りました。すると先生はチョークを手に取り、黒板に数学の問題を5問書いて、こう言いました。「この問題を解けたら、昼食に行ってよし!」私は美味しい昼食を思い浮かべながら、すぐにノートを開き、問題に取り組みました。結局その日、私が昼食を食べるのが遅れたのは、昼食の準備ができていなかったからではなく、与えられた課題を終えられなかったからでした。イエスさまが再臨を約束されてから、すでに2000年以上が経ちました。この遅れは、天の御国の準備が整っていないからではなく、イエスさまが私たちに託された使命がまだ果たされていないからです。
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」。マタイによる福音書6章31-32節 私たちは心配の多い時代を生きています。子どもたちが学校で安全に過ごせるか心配し、寝るときも心配し、子供たちがどのような社会で成長していくのかを心配します。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかについても心配し、さらには将来のことまでも思い悩みます。 イエスさまの時代の人々と同じように、私たちもこの御言葉による絶え間ない励ましが必要です。 「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ 6:32)。 神様の私たちへの配慮は非常に深く、私たちの個人的な必要をご自身の責任として担ってくださっています。神様が私たちの必要を理解しておられるのですから、神様が私たちの必要を満たしてくださることを信じ感謝し、喜んで神様のものをお返しいたしましょう。
「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」。コリント人への第二の手紙8章7節 パウロはコリントの教会に対し、彼らが信仰、語ること、知識、熱心さ、そして隣人に対する愛に満ち溢れているように、与える恵みにも欠けることがないようにと勧めました。与えることは、私たちにとって自然なことではありません。イエスさまが「受けるよりは与える方が幸いである」と言われたのは、このためだったのかもしれません。 福音をあらゆるところに伝え、地域社会の恵まれない人々を助けるという使命を果たすために、私たちは与える恵みを祈り求めましょう。神様は、私たちが得意とすることをやめるよう求めているのではなく、すでに得意としていることに、与える恵みを増し加えるようにと求めておられるのです。あなたが説教者であれ、讃美をささげる人であれ、もてなしに長けた人であれ、憐れみ深い人であれ、指導力を持つ人であれ、与えることによる恵みも豊かに受けることができるように祈りましょう。
マケドニアの信徒の秘密は、まず自分自身を神様にささげることにありました。神様に自らをささげることこそ、惜しみなく与えるための秘訣なのです。貧しい人も裕福な人も、まず主に自らを明け渡さなければ、マケドニアの信徒の基準に到達することはできません。真の献金は、持っている物や、財布やポケットの中身から始まるのでもなく、主に献げられた心から始まるのです。
このシリーズについて
イエス・キリストは「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 (マタイによる福音書6章20節~21節)と言われました。
神様との正しい関係を持つとき、ささげることが喜びとなり、それは永遠に残る宝となります。人生を豊かなものとする秘訣がここにあります。

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