十字架の愛に応答する
イエス・キリストは「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 (マタイによる福音書6章20節~21節)と言われました。 神様との正しい関係を持つとき、ささげることが喜びとなり、それは永遠に残る宝となります。人生を豊かなものとする秘訣がここにあります。

動画
もし私たちが、イエス・キリストと出会っていなかったなら、私たちの人生はどうなっていたでしょうか。 神様は、私たちを闇の力から救い出し、イエス・キリストへと導いてくださいました。聖書は約束しています。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10章13節)。では、「主の名」はどのようにして私たちに届けられたのでしょうか。それは、福音を宣べ伝える人によって私たちへと届けられたのです。 「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができ」るでしょうか(ローマ10章14節)。 イエス・キリストと出会った者として、私たちも与えられた場所で証しすることができます。 私たちが福音を分かち合えば分かち合うほど、神様はさらに多くの祝福を与えてくださるのです。 「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカによる福音書6章38節)
イエスさまは、裕福な人々が神殿で多額の献金を献げているのをご覧になりました。正しい場所で正しいことをしているように見えましたが、イエスさまの表情は曇っていました。サタンは、私たちの献げものを妨げることができない時、今度はその動機をゆがめようとします。もし私たちが、自分を所有者と考え、さらに自分の財産を寄付する者として振る舞うなら、神様を栄光の座から退け、自分に栄光を帰すことになるのです。創造主であられる神様こそが、すべての本当の所有者であり、「万物の相続者」(ヘブル1:2)です。ダビデも次のように宣言しています。「天と地にあるすべてのものはあなたのもの」(歴代誌上29:11)。では私たちは何者なのでしょうか。私たちは神様から与えられたものを忠実に管理する者なのです。神様がご自分の財産の一部を私たちに託してくださるたびに、私たちはその一部を神様にお返しするよう招かれているのです。ダビデは次のようにまとめています。「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」(歴代誌上29:14)。
「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」マルコによる福音書14:5 使徒たちは、マリアの献げ物を一言で「無駄」と評しました。彼らの動機を掘り下げるまでもなく、神様のために献げることは実に無駄なことだと考える人々がいることは事実です。このような人々は、自分にとって価値があると思う目的には多額の寄付をすることがあっても、神様の御業となると、資源の無駄と考え、ほんの僅かしか献げないのです。 すべての人がマリアのように献げるならば、福音のメッセージはどれほど大きな影響力になるでしょうか。私たちの資源を神様の御業に用いることほど素晴らしい用い方はありません。神様の御業のために献げるとき、それは天に宝を積むことを意味します(マタイ6:19–21)。つまり、地上で神様の御業を支援し、神様の愛と御子という、人類に与えられた素晴らしい贈り物を多くの人に知って貰えるだけでなく、私たち自身も天に宝を蓄えることになるのです。 什一と統合約束献金をお返しする今、十字架において支払われた犠牲に心を向けましょう。そして、私たち一人ひとりが愛の応答ができますように祈りましょう。
「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた」。 マルコによる福音書14:3–5 聖書は、女性の献げ物を「純粋で非常に高価なナルドの香油」と記しています。この惜しみない献げ物は、思慮深く考慮された結果であり、突発的な贈り物ではありませんでした。この女性は、主が自分のためにしてくださったことに対する愛と感謝を示したのです。彼女の愛と感謝は、彼女が持つ最も貴重なもの、すなわち「非常に高価なナルドの香油」に表されていました。 彼女は、神様への愛と感謝を表すために、持っているものの中で最高のものを献げたのです。 今日、私たちの神様への愛と感謝はどのようなものでしょうか。私たちが献げるものは、私たちがイエスさまをどれほど愛し、私たちのためにしてくださったことに対してどれほど感謝しているかを示しています。 什一と統合約束献金をお返しする今、十字架で示された愛に心を向け、感謝を持ってお献げいたしましょう。
「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた」。ルカによる福音書4章25,26節 イエスさまが語られたこの言葉は、終末時代を生き、特別な真理を託されている私たちにとって極めて重要です。イスラエルにはエリヤを養うことができる多くの人たちがいたにもかかわらず、神様は彼らのもとへエリヤを送られることはありませんでした。使命を果たすために彼らを迂回して、全く異なる人を選ばれたのです。 神様は、まだ多くの人が気づいておらず、また十分に理解していない真理を私たちに託しておられます。そして、この真理を広く伝えるための手段も与えてくださっているのです。 什一と統合約束献金をお返しする今、十字架で示された愛に心を向けましょう。そして、多くの人にこの福音が届けられますように祈りましょう。
「わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」創世記28章22節 ダカは農家でしたが、家族を養うための作物を作るのに苦労していました。幸せとは程遠い生活を送っていたダカは、収穫量の増やし方が全く分からず途方に暮れていました。ある日、ダカは友人に誘われて教会に行き、「教えに従う者に祝福を与えてくださる神様」について学びました。最初、ダカは半信半疑で、試してみる価値があるとは思えませんでした。しかし、収穫量の少なさに日々悩まされる中で、「試してみよう」と思いました。彼は静かにひざまずき、精一杯祈りました。祈りの中で、「説教者が言ったように、本当に神様が祝福してくださるなら、什一をお返しいたします」と神様に伝えたのです。ダカは例年と同じように畑を丁寧に耕し、種を植えました。収穫の時が来て、ダカは収穫量が前年の5倍を超えたことに驚きました。ダカは神様が与えてくださった祝福に感謝し、「什一をお返しする」という約束を守りました。什一と統合約束献金をお返しする今、祝福を与えてくださる神様を心から信頼しましょう。
ある日、デクスターが店で支払いをしようとしたとき、財布がポケットにないことに気づきました。彼が歩いてきた道をたどって自分の車に戻ると、2人の男が道端に座っていました。一人は品のある紳士風で、もう一人は「強面」の風貌でした。車の近くに行くと、その二人が激しい口論をしていました。怒っていたのは「強面」の方で、彼は紳士に向かって、「財布を拾ったのに、落とした人を追いかけて返さなかったのはどうしてだ?」と強い口調で問い詰めていました。紳士が「どうしてお前が気にするんだ?」と言い返すと、強面の男は、「彼は俺の兄弟だ。俺がここにいるのに、兄弟の財布を取るなんて許さん」と言いました。その言葉を聞いたデクスターは勇気を出して、「彼の言う通りだ。私の財布を返してくれ」と言いました。紳士は渋々、財布を返してくれて、中身も無事だったのです。デクスターは店に戻り、品物の支払いを済ませた後、「強面の兄弟」に謝礼を渡しました。詩編の著者はこう問いかけています。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか」(詩編116:12)。什一と献金をお返しする時、神様が独り子イエス・キリストを与えてくださったことを思い返しましょう。神様に愛の応答ができますように。
経済的に厳しく、必要が多いときでも、あなたは神さまを第一にすることができるでしょうか。 ケニアのマーガレットさんは、持っているものがごくわずかであっても、十分の一と献げ物をささげることで、恐れではなく信仰を選びました。彼女の体験は、忠実な管理とは豊かさの有無ではなく、信頼と従順、そしてその後に続く祝福にあることを示しています。
「主を信じる者は、だれも失望することがない」ローマ人への手紙10章11節 少年フレディのお話です。フレディが小学校3年生のとき、みんなは良い成績なのに、自分だけいつも点数が悪く、学校を辞めようと考えたこともありました。そんなとき、彼の心にひとつの考えが浮かびました。それは、「自分の悩みを神様に打ち明けよう」というものでした。その考えが浮かんだフレディは、ひざまずいて祈りました。「神様、僕が勉強でどれほど苦労しているか、あなたはご存じです。友達はみんな良い点数なのに、僕だけ追試で、いつも笑われています。どうか僕も高得点が取れるように助けてください。僕は神様を心から信じています。神様を知らない人たちを助けることができるなら、神様を信じている僕を助けてくださらないわけがありません。どうか神様、これからは良い点数を取らせてください。アーメン。」神様とお話しした後、フレディは決意を新たにして勉強に取り組みました。数週間後、先生から「この前のテストの結果はフレディが一番でした」と発表され、大変驚きました。この忘れられない日以来、フレディはクラスで一位をキープし続けており、自分を成績優秀者に変えてくださった神様に心から感謝しています。「主を信じる者は、だれも失望することがない」(ローマ10:11)と聖書に書かれています。什一と統合約束献金をお返しする今、神様の祝福に感謝し、すべての必要を満たしてくださることを信じてお献げいたしましょう。
「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」ガラテヤ6章9節 マルメはザンビア西部の魚の豊富な町に住んでいました。彼が特に好きだったのは赤鯛でした。この魚は彼にとって最高のご馳走でした。しかし困ったことに、彼がこの大好きな魚を購入した日に限って予期せぬ来客があり、大好きな料理を分けることになるのでした。このようなことが繰り返され、彼は大変悩みました。 ある日、マルメは大きな赤鯛を買い、自分の手で丁寧に調理し楽しみにしながら食卓に向かいました。しかし、いざ食べ始めようとしたその時、ドアをノックする音が聞こたのです。彼は少しの間ためらいました。予期せぬ来客と食事を共にするべきか、それともノックは聞こえなかったことにして食事をするべきか、葛藤したのです。 結局、彼はしぶしぶ扉を開け、訪問者を迎え入れ、一緒に食事を分かち合いました。しかし、マルメは食事を訪問者と分かち合い続けるうちに、嫌だった気持ちが薄れていくのを感じ、やがて、誰かと分かち合わない限り、自分自身が食事を十分に楽しむことできなくなりました。 マルメのように、「喜びを感じるまで」分かち合うことを待つべきではありません。そのような時は永遠に訪れないかもしれないからです。むしろ、分かち合いを続けることによって、自分の中にある不快感をもたらす利己心が克服できるのです。什一と統合約束献金をお返しする今、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録 20:35)という御言葉を心に留めて、神様に感謝しましょう。
「御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』」創世記22章12節 先週は、「神様のご命令に従うことが、神様を畏れる者の特徴である」と考えました。今日はもう一つの教訓について考えます。アブラハムは神様に自分の独り子をお献げすることを拒みませんでした。この例によって、「神様を畏れる者は神様に何でも惜しみなくお献げする」、と学び取ることができます。 アブラハムが息子を献げるという試練を見事に乗り越えた信仰が、神様と天の住人に見過ごされることはありませんでした。エレン・ホワイトはこの場面を次のように美しく描写しています。「全天は驚嘆と賞賛をもって、アブラハムの断固とした服従を見守った。全天は彼の忠誠に賛嘆の声をあげた」(『希望への光』76ページ)。 アブラハムがその従順を身をもって表したとき、天は歓喜に包まれました。現代の言葉で言うならば、「天は総立ちで、父アブラハムに拍手喝采をした」、と言えるでしょう。「アブラハムがイサクを献げた!」という歓喜の瞬間でした。 サタンは、私たちが神様に従い、忠実に惜しみなく献げることを思い留まらせようとするかもしれません。しかし、私たちが神様の声に耳を傾けるか、それともサタンの声に耳を傾けるのか、神様と天の全てが私たちの選択を見守っていることを忘れてはなりません。 什一と統合約束献金をお返しする今、私たちが従順と最善を尽くして神様にお返しすることによって、「行動に移す信仰」が全天に喜びをもたらすこととなりますように。
「御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』」創世記22章12節 アブラハムは、誰もが経験したくない試練に直面しました。彼に求められたことは、自分自身と妻サラの心を引き裂くような行為でした。それにもかかわらず、アブラハムは神様の命令に従おうとしました。この聖句には重要な教訓が二つあります。今回はその1つ目に焦点を当て、もう1つは次回考えます。アブラハムは行動によって神様を畏れる心を示しました。神様が、息子を生贄として献げなさいと命じたとき、アブラハムはそれに従いました。彼は言い訳をせず、また息子が「たった一人の子」であり、「約束の子」であることを神様に思い出させるようなこともしませんでした。神様の言われたことに従うことは、神様を畏れる人の特徴の一つです。神様の定めはマラキ書3章10節で「十分の一の献げ物をすべて倉に運びわたしの家に食物があるようにせよ」と記されています。私たちもアブラハムのように、「十分の一の献げ物をすべて倉に」納めることによって神様を恐れる者であることを表したいと思います。什一と統合約束献金を倉に納める今、神様を畏れる者であることを表明いたしましょう。そして、アブラハムが神様の御命令に従い、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」という御言葉が、私たちへの御言葉ともなりますように。
このシリーズについて
イエス・キリストは「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 (マタイによる福音書6章20節~21節)と言われました。
神様との正しい関係を持つとき、ささげることが喜びとなり、それは永遠に残る宝となります。人生を豊かなものとする秘訣がここにあります。

あなたへのおすすめ動画
伝道について考える 講師:花田憲彦
この聖書会議は、世界各地から、各分野の第一人者を講師としてお招きして、セブンスデー・アドベンチスト教会の神学的潮流を知り、現時点での聖書理解を確認する為に5年に一度行われます。今回は7名の講師をお招きして、興味深いトピックで講義をしていただきました。
神からのいのちを受け、それに生きるということは? 講師:李 根完
講師:マーク・デュアート















