十字架の愛に応答する

イエス・キリストは「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 (マタイによる福音書6章20節~21節)と言われました。 神様との正しい関係を持つとき、ささげることが喜びとなり、それは永遠に残る宝となります。人生を豊かなものとする秘訣がここにあります。

十字架の愛に応答する

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感謝をもって献げる

「彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」。イザヤ書 53 章11 節 新しい命が誕生すると、人々はその赤ちゃんに贈り物をします。親しい友人や親族が訪れ、喜びを分かち合いながら、何かしらの贈り物を持参します。 イエスさまが誕生されたときも同じでした。 東方の博士たちは、幼子であり、王様であるイエスさまを礼拝するために、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。この物語は、献げることが礼拝であることを教えています。献げることと礼拝は切り離すことができませ ん。旧約聖書の時代においても、神殿での礼拝にも神様への犠牲の献げ物が伴っていいるのです。 什一と統合約束献金をお返しする今、十字架において自分自身を献げてくださったイエスさまに心を向け、私たちも献げものを通して心から神様を礼拝いたしましょう。

与えられた使命

「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」。マタイによる福音書 24章14節 中学1年生のある日、私は朝食をとらずに学校へ向かいました。家を出るときから、お腹が空いていた私は、昼食の時間が待ち遠しくて仕方がありませんでした。午前中の授業中も何度も壁の時計を確認し、昼食の時間までのカウントダウンをしていました。しかし、期待とは裏腹に時間はまるで進まないように感じられました。まるで人生で一番長い日を過ごしているかのようでした。そして、ようやく待ちに待ったチャイムが鳴りました。私は急いで本をまとめ、すぐに教室のドアへ向かいました。しかし、そのとき先生の声が響きました。「リワリ、座りなさい!」私はしぶしぶ席に戻りました。すると先生はチョークを手に取り、黒板に数学の問題を5問書いて、こう言いました。「この問題を解けたら、昼食に行ってよし!」私は美味しい昼食を思い浮かべながら、すぐにノートを開き、問題に取り組みました。結局その日、私が昼食を食べるのが遅れたのは、昼食の準備ができていなかったからではなく、与えられた課題を終えられなかったからでした。イエスさまが再臨を約束されてから、すでに2000年以上が経ちました。この遅れは、天の御国の準備が整っていないからではなく、イエスさまが私たちに託された使命がまだ果たされていないからです。

心配から平安へ

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」。マタイによる福音書6章31-32節 私たちは心配の多い時代を生きています。子どもたちが学校で安全に過ごせるか心配し、寝るときも心配し、子供たちがどのような社会で成長していくのかを心配します。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかについても心配し、さらには将来のことまでも思い悩みます。 イエスさまの時代の人々と同じように、私たちもこの御言葉による絶え間ない励ましが必要です。 「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ 6:32)。 神様の私たちへの配慮は非常に深く、私たちの個人的な必要をご自身の責任として担ってくださっています。神様が私たちの必要を理解しておられるのですから、神様が私たちの必要を満たしてくださることを信じ感謝し、喜んで神様のものをお返しいたしましょう。

イエスさまのような心

「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」。コリント人への第二の手紙8章7節 パウロはコリントの教会に対し、彼らが信仰、語ること、知識、熱心さ、そして隣人に対する愛に満ち溢れているように、与える恵みにも欠けることがないようにと勧めました。与えることは、私たちにとって自然なことではありません。イエスさまが「受けるよりは与える方が幸いである」と言われたのは、このためだったのかもしれません。 福音をあらゆるところに伝え、地域社会の恵まれない人々を助けるという使命を果たすために、私たちは与える恵みを祈り求めましょう。神様は、私たちが得意とすることをやめるよう求めているのではなく、すでに得意としていることに、与える恵みを増し加えるようにと求めておられるのです。あなたが説教者であれ、讃美をささげる人であれ、もてなしに長けた人であれ、憐れみ深い人であれ、指導力を持つ人であれ、与えることによる恵みも豊かに受けることができるように祈りましょう。

自分自身を献げる

マケドニアの信徒の秘密は、まず自分自身を神様にささげることにありました。神様に自らをささげることこそ、惜しみなく与えるための秘訣なのです。貧しい人も裕福な人も、まず主に自らを明け渡さなければ、マケドニアの信徒の基準に到達することはできません。真の献金は、持っている物や、財布やポケットの中身から始まるのでもなく、主に献げられた心から始まるのです。

与える心

マケドニアの信徒たちは、極度の貧しさの中にありながら、エルサレムの兄弟姉妹を助ける機会を懇願しました。 (コリント第二の手紙 8 章 4 節) 自分たちが貧しい中にあっても、誰かを「助けたい」、誰かのために「献げたい」という熱心さがみられたのです。 終わりの時代、人々の愛は冷え、自分中心の生き方がこの世界を覆います。 聖書も警告しています。「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。 」 (テモテへの手紙二 3 章 1,2 節) 。 マケドニアの信徒たちの、「与える心」はどこからきたのでしょうか。 それは、日々、御言葉を通してイエスさまと交わることによって与えられました。 イエスさまの生涯と品性を知れば知るほど、私たちはますますイエスさまのようになりたいと願うようになります。そして、自分中心の生き方から、周りに与える生き方へと変えられるのです。 隣人のためになされる自己犠牲の一つひとつの行為は、その人の心に慈善の霊を強め、イエスさまと一つになります。

宣べ伝える祝福

もし私たちが、イエス・キリストと出会っていなかったなら、私たちの人生はどうなっていたでしょうか。 神様は、私たちを闇の力から救い出し、イエス・キリストへと導いてくださいました。聖書は約束しています。 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10章13節)。では、「主の名」はどのようにして私たちに届けられたのでしょうか。それは、福音を宣べ伝える人によって私たちへと届けられたのです。 「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができ」るでしょうか(ローマ10章14節)。 イエス・キリストと出会った者として、私たちも与えられた場所で証しすることができます。 私たちが福音を分かち合えば分かち合うほど、神様はさらに多くの祝福を与えてくださるのです。 「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカによる福音書6章38節)

所有者は誰?

イエスさまは、裕福な人々が神殿で多額の献金を献げているのをご覧になりました。正しい場所で正しいことをしているように見えましたが、イエスさまの表情は曇っていました。サタンは、私たちの献げものを妨げることができない時、今度はその動機をゆがめようとします。もし私たちが、自分を所有者と考え、さらに自分の財産を寄付する者として振る舞うなら、神様を栄光の座から退け、自分に栄光を帰すことになるのです。創造主であられる神様こそが、すべての本当の所有者であり、「万物の相続者」(ヘブル1:2)です。ダビデも次のように宣言しています。「天と地にあるすべてのものはあなたのもの」(歴代誌上29:11)。では私たちは何者なのでしょうか。私たちは神様から与えられたものを忠実に管理する者なのです。神様がご自分の財産の一部を私たちに託してくださるたびに、私たちはその一部を神様にお返しするよう招かれているのです。ダビデは次のようにまとめています。「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」(歴代誌上29:14)。

もったいない?

「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」マルコによる福音書14:5 使徒たちは、マリアの献げ物を一言で「無駄」と評しました。彼らの動機を掘り下げるまでもなく、神様のために献げることは実に無駄なことだと考える人々がいることは事実です。このような人々は、自分にとって価値があると思う目的には多額の寄付をすることがあっても、神様の御業となると、資源の無駄と考え、ほんの僅かしか献げないのです。 すべての人がマリアのように献げるならば、福音のメッセージはどれほど大きな影響力になるでしょうか。私たちの資源を神様の御業に用いることほど素晴らしい用い方はありません。神様の御業のために献げるとき、それは天に宝を積むことを意味します(マタイ6:19–21)。つまり、地上で神様の御業を支援し、神様の愛と御子という、人類に与えられた素晴らしい贈り物を多くの人に知って貰えるだけでなく、私たち自身も天に宝を蓄えることになるのです。 什一と統合約束献金をお返しする今、十字架において支払われた犠牲に心を向けましょう。そして、私たち一人ひとりが愛の応答ができますように祈りましょう。

感謝と愛の応答

「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた」。 マルコによる福音書14:3–5 聖書は、女性の献げ物を「純粋で非常に高価なナルドの香油」と記しています。この惜しみない献げ物は、思慮深く考慮された結果であり、突発的な贈り物ではありませんでした。この女性は、主が自分のためにしてくださったことに対する愛と感謝を示したのです。彼女の愛と感謝は、彼女が持つ最も貴重なもの、すなわち「非常に高価なナルドの香油」に表されていました。 彼女は、神様への愛と感謝を表すために、持っているものの中で最高のものを献げたのです。 今日、私たちの神様への愛と感謝はどのようなものでしょうか。私たちが献げるものは、私たちがイエスさまをどれほど愛し、私たちのためにしてくださったことに対してどれほど感謝しているかを示しています。 什一と統合約束献金をお返しする今、十字架で示された愛に心を向け、感謝を持ってお献げいたしましょう。

すべてを委ねる信仰

「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた」。ルカによる福音書4章25,26節 イエスさまが語られたこの言葉は、終末時代を生き、特別な真理を託されている私たちにとって極めて重要です。イスラエルにはエリヤを養うことができる多くの人たちがいたにもかかわらず、神様は彼らのもとへエリヤを送られることはありませんでした。使命を果たすために彼らを迂回して、全く異なる人を選ばれたのです。 神様は、まだ多くの人が気づいておらず、また十分に理解していない真理を私たちに託しておられます。そして、この真理を広く伝えるための手段も与えてくださっているのです。 什一と統合約束献金をお返しする今、十字架で示された愛に心を向けましょう。そして、多くの人にこの福音が届けられますように祈りましょう。

やってみます

「わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」創世記28章22節 ダカは農家でしたが、家族を養うための作物を作るのに苦労していました。幸せとは程遠い生活を送っていたダカは、収穫量の増やし方が全く分からず途方に暮れていました。ある日、ダカは友人に誘われて教会に行き、「教えに従う者に祝福を与えてくださる神様」について学びました。最初、ダカは半信半疑で、試してみる価値があるとは思えませんでした。しかし、収穫量の少なさに日々悩まされる中で、「試してみよう」と思いました。彼は静かにひざまずき、精一杯祈りました。祈りの中で、「説教者が言ったように、本当に神様が祝福してくださるなら、什一をお返しいたします」と神様に伝えたのです。ダカは例年と同じように畑を丁寧に耕し、種を植えました。収穫の時が来て、ダカは収穫量が前年の5倍を超えたことに驚きました。ダカは神様が与えてくださった祝福に感謝し、「什一をお返しする」という約束を守りました。什一と統合約束献金をお返しする今、祝福を与えてくださる神様を心から信頼しましょう。

このシリーズについて

イエス・キリストは「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 (マタイによる福音書6章20節~21節)と言われました。

神様との正しい関係を持つとき、ささげることが喜びとなり、それは永遠に残る宝となります。人生を豊かなものとする秘訣がここにあります。

十字架の愛に応答する
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アドベンチスト, 信仰
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