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帰ってきたジャスティン

ジャスティンの画面に広告が表示された。「祈りが必要ですか?私たちはここにいるので、お話を聞きます。」偶然?いいえ。その特に辛い夜、それは単なる偶然を超えたもののように感じられた。ジャスティンはあらゆる手段を試した——異なる宗教、壊れた人間関係、空虚な約束、薬物、アルコール——少しでも楽になるために。

アルナルドの再出発

アルナルドは仕事もなく、将来の見込みもなく、希望は薄れつつあった。彼のタトゥーで覆われた腕——過去を映す地図——は、スマートフォンで祈りの広告を閲覧する際に緊張していた。驚いたことに、応答したのはAIではなく、本物の担当者だった。ミシガン州の24時間体制のオフィスから応答したのは、アドベンチスト・コネクトの祈りのチームメンバーで、その祈りと励ましの言葉は彼にとって命綱となった。

満足されたキリスト

聖書の中でイエスさまの御業が描かれている章のひとつに、イザヤ書 53 章 があります。ここでは、イエスさまが苦しみのしもべとして描かれています。 私たちの主であり救い主であるお方が、つぶやくことなく、あらゆる苦難を 耐え抜かれた理由は何だったのでしょうか?『患難から栄光へ』にはこのよ うに記されています。「骨折りと犠牲のご生涯の間、神のみ子を支えたものは 何であったか。キリストはご自分の魂の労苦の結果をご覧になって、満足さ れた。キリストは、永遠をご覧になり、ご自身の屈辱を通してゆるしと永遠 のいのちを受けた人々の幸福をご覧になった。キリストの耳は、あがなわれ た者たちの歓喜の叫びを聞きとられた。主はあがなわれた人々が、モーセと 小羊の歌をうたっているのをお聞きになった」(エレン・ホワイト『希望への光』 1585 ページ)。 キリストにとって、十字架によって救われた人の喜びが、すべての苦しみ を耐え忍ぶ原動力でした。 私たちも主の模範に倣い、苦難に耐え、惜しみない施しによって救われる 人々のために、主の御業のために、献身的にお献げいたましょう。天の国に おいて、大いなる喜びが私たちを待ちわびています。私たちが心からお返し する什一と統合約束献金を通して、誰かがモーセと小羊の歌を歌っている姿 を想像してみてください。 将来を見据えてお献げいたしましょう。キリストが私たちのすべての行い の中心にあるとき、私たちは自分の献金が人々の人生に影響をもたらしてい ることを知って喜ぶことができるのです。

イエスさまと出会う学校

「神にできないことは何一つない。」ルカによる福音書 1 章 37 節 ムンディアがジンバブエのソルシ大学で神学の学士号を取っていた時、有名な伝道者であった故コーネリウス・マタンディコ博士が、大学キャンパスで「霊的強調週間」を行いました。ムンディアは妻と 2 人の幼い息子と一緒に、後方の席に座っていました。 毎晩、教会で心を惹きつけるメッセージに耳を傾けていると、彼らの前の席には絶えず仲間と談笑している青年がいました。ムンディアは、この青年が行動を改めなければ、自分を含む多くの人が説教のメッセージから恩恵を受けられないと感じました。そのため、ムンディアはこの青年のために祈りはじめました。しかし、祈れば祈るほど、その青年の態度はますます乱れるように思われました。 強調週間が終わる前に、マタンディコ博士が参加者にイエスさまを受け入れ、バプテスマを受けるよう呼びかけた時、ムンディアはあの困った青年が立ち上がって前に歩いていくのを見て驚きました。ムンディアは、この青年が本気なのだろうかと疑いました。翌日、その青年はいつもの席に座っていましたが、様子が一変していました。彼は静かに座り、真剣に耳を傾け、バプテスマを受けた多くの人々の一人となっていたのです。 私たちの学校は、多くの青年にイエスさまを紹介する重要な役割を担っています。このような学校はあらゆる場所に必要ですが、設立には多額の財政的支援が必要です。 私たちが統合約束献金を喜んでお献げし続け、多くの青年がアドベンチストの学校で学び、イエスさまを知ることができますように、お祈りいたしましょう。

礼拝メッセージ203 待ち続けた人

題:「待ち続けた人」(25 分)  250208 説教者 :柴田俊生 聖書朗読 :イザヤ書 55 章8~9節 瞑想の言葉 :E・G・ホワイト「キリストの実物教訓」第 28 章 「神の前に価値があるのは、なしとげた働きの量や目に見れる結果などではなくて、働きをした精神である。夕方の5時にぶどう園に来た労働者は、働く機会が与えられたことを感謝した。」 始めの讃美歌 :希望の讃美歌 14 番 終わりの讃美歌 :希望の讃美歌 263 節

礼拝メッセージ202 I Believe Myself

題:「I Believe Myself」(41 分)  240709 説教者 : 山地 悟 聖書朗読 :マタイによる福音書 26 章 31~35 節 瞑想の言葉 :E・G・ホワイト「各時代の希望」第 73 章 「救い主は彼のうちに、キリストに対する愛さえ圧倒してしまうような自分を愛する思いと自信とがあるのをごらんになった。弱さ、克服されていない罪、軽率な精神、きよめられていない性質、試みにとびこんで行く無頓着さなどといったものが多分に彼の経験にあらわれていた。キリストの厳粛な警告は、心をさぐるようにとの呼びかけであった。」 始めの讃美歌 :希望の讃美歌 28 番 終わりの讃美歌 :希望の讃美歌 305 番

礼拝メッセージ201 わが主の導くところ

題:「わが主の導くところ」(36分)  230722 説教者:花田憲彦 聖書朗読:使徒行伝15章36~41節 瞑想の言葉 :E・G・ホワイト「患難から栄光へ」第20章 「使徒パウロは、自分の働きによって改宗した人々に対して、重い責任を感じていた。何よりも彼らが信仰を持ち続けて、「キリストの日に、わ たしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」ようにと彼は切望した(ピリピ2:16)。」 始めの讃美歌 :希望の讃美歌90番 終わりの讃美歌 :希望の賛美歌327番

隣人を愛する弟子へ!

イエスさまは、マタイによる福音書 22 章 36 節から 40 節で 2 つの最も大 切な戒めを教えられました。第二の戒めは、『隣人を自分のように愛しなさい。』 というものです。私たちは隣人への愛をいくつかの方法で表すことができま す。たとえば、彼らが困難な人生の試練に直面している時、そばにいること、 入院して病気と闘っているときにお見舞いに行き、困窮しているときに助け の手を差し伸べることなどです。 隣人に対する私たちの愛は、彼らの物理的な必要を満たすことだけでなく、 救いのためにも投資すべきです。什一と献金をお返しするとき、私たちは神 様と共に働いています。神様の働きに献金することにより、私たちの心は、 イエスさまが御自身の命を献げられた男性、女性、少年少女たちに引き寄せ られるのです。エレン・G・ホワイトは次のように記しています。「もし、あ なたが神を最高に愛し、あなたの隣人をあなたと同じように愛しているなら、 それは目に見える形で、伝道の働きのための自由意志の献金として表される であろう」(エレン・ホワイト『祝福に満ちた生活』62 ページ)。 真理を求めている兄弟姉妹の救いのために、惜しみなく什一や献金をお返 しすることによって、神様と隣人への愛を表しましょう。

先延ばしにした牧師

ある牧師が、ある町で伝道講演会をすることになりました。翌日、その町を歩いていると、思いがけず何年も会っていなかった昔の同級生に出会い、2人とも久しぶりの再会を喜びました。 その友人が訪問の理由を尋ねると、牧師は 3 ヶ月後に予定されている伝道講演会に向けて準備をしていると説明しました。友人はその話を聞いて感激し、今度の講演会で最初にバプテスマを受けると約束しました。その友人の熱意に牧師は、彼ならイエスさまに人生を献げる招きを即座に受け入れるだろうと確信しました。牧師は翌日、その友人を教会に招くことも考えましたが、3 ヵ月後で良いだろうと自分をなだめて思い留まり、3 ヵ月後の再会を期待して別れました。 3 か月後、牧師は現地に到着し、バプテスマを受ける準備ができている尊い魂が既に一人いると思い、楽観的な気持ちでいました。既にバプテスマを受ける約束している人がいる状態で伝道講演会を始めるのは珍しいことでした。牧師はこれを豊かな収穫の兆しととらえ、講演会後には多くのバプテスマが与えられるに違いないと確信していました。 到着すると、講演者はちょっと離れた場所にテントが設置されているのに気づきました。葬儀のためだと思った講演者は、誰が亡くなったのか尋ねました。関係者から亡くなった方の名前を聞くと、それは、まさに伝道講演会でバプテスマを受けると約束していた牧師の友人だったのです。 講演する牧師は深く悲しみ、友人をイエスさまに招くのを遅らせてしまったことを悔やみました。 私たちも、手を差し伸べるのを遅らせてしまうことがあります。今、神様のメッセージを届けられるうちに、福音を伝える心を祈り求めましょう。什一と統合約束献金をお返しする今、私たちの友人に福音を伝える機会が与えられますように祈り求めましょう。

チャンスを逃さない

「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」エフェソの信徒への手紙 5 章 16 節 機会は永遠には続きません。「失った機会は二度と訪れないかもしれない」ということわざもあります。 今日言わずにおいた言葉は、明日、もう言えないかもしれません。今日届けることができなかった人には、明日も届けられないかもしれません。今日福音を伝えられなかった人が、明日、私たちを迫害するかもしれません。献げる機会を逃したら、その機会は二度と巡ってこないかもしれません。仮に、また訪れたとしても、今日成し遂げられたはずのことを果たせないかもしれないのです。 神様の御業のために与えられた、あらゆる機会を有効に活かしましょう。なぜなら、今日私たちに与えられている機会が、明日にはもうないかもしれないからです。私たちが心からお返しする什一と統合約束献金を通して、どこかの誰かが神様と出会うことを確信しつつ、祈りを持ってお返しいたしましょう。

天に富を積む

「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。」コヘレトの言葉 9 章 10 節 「機会」という言葉は、ロングマン辞典によると「何かをするチャンス、または何かをしやすい状況」と定義されています。もしそうであるなら、既にご承知の通り、「機会」の瞬間が永遠に続くことはない、ということです。機会は訪れては去っていくものです。 この教会にいる私たち一人ひとりに、何かをするチャンスが与えられています。生きていること自体、死んだらできないことを、するためのチャンスです。教会で神様の御言葉に耳を傾けることは、イエスさまに人生を献げるチャンスであり、機会です。健康であることは、伝道活動に参加できる機会であり、この献金のメッセージを聞く時は、神様の御業を前進させるために献げる機会なのです。しかし、このような機会が永遠に続くことはありません。 もし私たちに支援できる手段が与えられているのなら、それは神様の働きを支えるチャンスです。私たちの力で神様の働きを支えるチャンスも永遠には続きません。什一と統合約束献金をお返しする今、神様の御業を前進させる機会を逃さないようにいたしましょう。

礼拝メッセージ200 仮面をかぶる人生

説教者:島田隼人 250215 聖書朗読:ペトロの手紙一5章7節 瞑想の言葉 :「私が生きた信仰」 「試練の猛攻撃を受けるとき、状況や自分の弱さを見ないで、神の御言葉の力を見なさい。その御言葉のすべての力はあなたのものです。」 始めの讃美歌 :希望の讃美歌10番 終わりの讃美歌 :希望の讃美歌273節

礼拝メッセージ199 では あの塀はどう越えればいいのですか?

説教者:河原 久 240309 聖書朗読:箴言3章16節 瞑想の言葉:イザヤ書30章21節 「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け右に行け、左に行け』と。」 始めの讃美歌 :希望の讃美歌317番 終わりの讃美歌 :希望の讃美歌318番

礼拝メッセージ198 エルサレム会議~真の勝利とは

説教者:花田憲彦 230708 聖書朗読:使徒行伝15章6~9節 瞑想の言葉 :E・G・ホワイト「患難から栄光へ」第19章 「聖霊は、改宗した異邦人に、礼典律の実行を義務づけない方がよいと見られた。この問題に関する使徒たちの考えも、神のみ霊の考えと同じ であった。ヤコブは会議において議長をつとめていたが、彼の最終的決定は「そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない」ということであった。」 始めの讃美歌 :希望の讃美歌109番 終わりの讃美歌 :希望の賛美歌208番

与える弟子

世界には、人生のさまざまな局面で人の心を動かし、お手本にしたくなるような人物が沢山います。サッカーでは、ロナウドやメッシが多くの人たちから憧れの選手として称賛されています。バスケットボールではマイケル・ジョーダンやレブロン・ジェームズといった象徴的な選手がいます。陸上競技を楽しむ人はウサイン・ボルトのような人物が憧れの対象としています。 神学校で学ぶアドベンチストの若い説教者の中には、チャールズ・ブルックス、マーク・フィンリーを自分のお手本として挙げる人がいるかもしれません。では、「与える」ことにおいては、誰をお手本にすべきでしょうか?歴史上、多くの人が神様に惜しみなくお献げし、人々の信仰を奮い立たせました。しかし、「与える」ことにおける究極のお手本は、神様ご自身です。 ヨハネによる福音書 3 章 16 節にはこう書いてあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神様は私たちにひとり子イエスさまを与えて下さいました。神様が与えうるものの中で、御子以上のものはありませんでした。神様はすべてを与えてくださいました。イエスさまは、神様が私たちへの愛を示すために与えてくださった最も価値ある贈り物だったのです。神様は究極のお手本なのです。 什一と統合約束献金をお返しする今、神様が与えてくださった独り子に心を向けましょう。

信仰の一歩

2022 年、ドリーンは夫と幼い娘と共にザンビアの観光都市リビングストンに住んでいました。リビングストンには毎年、雄大なビクトリアの滝を見るために世界中から何千人もの観光客が訪れます。ある日、ドリーンと夫は献金の額を増やす必要性を話していました。長い話し合いの末、什一に加えて、10%を献金としてお献げすることに決めました。これは思い切った決断でした。すでに生活は楽ではなく、教師である夫の収入だけで生活していたからです。それでも、彼らは信仰の一歩を踏み出すことを選びました。 ちょうどその頃、選挙で選ばれたばかりの新政府から教師の求人が出されました。ドリーンは教師の資格を持ちながらも、2 年以上失業していたため、すぐに応募書類を提出し、結果を待ちました。待つこと 1 年、応募者は全国紙で結果を確認するようにという発表がありました。驚いたことに、ドリーンは採用されていました。同じように応募したのに選ばれなかった他の教会員たちは、彼女だけが選ばれたことに驚き、特別な手続きや政府内に知人がいたのか、と尋ねました。ドリーンは、「特別なことは何もなく、政府に知り合いもいない」と答えました。 ドリーンと夫は、彼らの信仰の一歩に対して神様が豊かに報いてくださったと確信しています。信仰の一歩を踏み出し、神様を信頼しましょう。神様は誠実です。什一と統合約束献金をお返しし、神様がマラキ 3 章 10 節の約束を果たしてくださる かを確かめてみましょう。 「十分の一の献げ物をすべて倉に運びわたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。 必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。」マラキ書 3章 10 節

他を潤す人は自分も潤う

「十分の一の献げ物をすべて倉に運びわたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。 必ず、わたしはあなたたちのために 天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。」 マラキ書 3 章 10 節 リーはこの聖句の意味をよく理解していました。彼は月末まで残り 15 日の時点で、手元に 10 ドルしか残っていませんでした。彼はザンビアにある複数の教会を担当する牧師でした。ある日曜日の朝、日差しが強くなる前に日光浴をしていると、親友の母親が家に来るのが見えたので、彼は立ち上がり、彼女を迎えました。彼女は製粉機の費用を支払うためのお金を借りに来た、と言いました。リーは何と言えばいいか分かりませんでした。月の半分を残して、あと 10 ドルしかないのです。このお金を渡せば、もう何もありません。 しかし、神様が助けてくださると信じ、家に入り 10 ドルを取り出し、喜んで彼女に渡しました。彼女は喜んで帰りましたが、リーは神様がこれからどうやって助けてくださるのだろうか、と思い巡らしていました。10 分も経たないうちに、誰かがドアをノックしました。ドアを開けると、自分が住んでいる施設の責任者が立っていたため、家に招き入れました。話が終わり、訪問を終えた責任者は帰り際に 10 ドル札を取り出して牧師に手渡し、そしてお祈りして帰って行ったのです。 神様の働きを支え、互いに助け合う中で、たとえ最後のものを献げたとしても、神様がいつも私たちを支えて下さっていることを思い起こし、喜びをもってお献げする心を持ち続けましょう。